当時、国鉄よりも早く蒸気機関車が走りました
◎明治44年に高知県東部の田野と馬路間に開設されて以来、昭和38年電源開発による車道化のため撤去されるまで 2本の鉄路は、安田川、奈半利川の本支流に沿って、その莫大な森林資源を運び続け、且つ生命を保証しない乗り物で あっても唯一の交通機関として人々の足となり、生活物資や地域の生産物の運搬をおこなってきました。
◎この魚梁瀬(やなせ)森林鉄道は、天然魚梁瀬スギの運搬のために敷設されました。大正8年に蒸気機関車が導入され大正末期には 全線機関車搬送となりました。昭和38年、魚梁瀬ダムの建設に伴い廃止され、そして湖底に沈むまで、半世紀近くに 亘り、天然スギやモミ、ツガの良材を運搬してきたのです。
生活に密着し、文化を運び込む
『ポー』と汽笛を鳴らし、真っ黒い煙をはき出して蒸気機関車が山あいの鉄路を走る。その力強さに沿線の住民たち は目を見張った。大正10年2月のことである。魚梁瀬森林鉄道に県内で初めての蒸気機関車が走った。 国鉄土讃線が高知−須崎間で開通したのが大正13年だから、それより2年ほど早い。明治44年、犬や牛を使った軌道が開通して以来、「命は保障しない」と物騒な条件つきだが、沿線住民は便乗できた。 花嫁さんも「林鉄」に乗ったし、郵便配達のおんちゃんも利用した。煙攻めにあいながら・・・・。生活に密着し、 奥地に文化を運び込んだ「林鉄」も、魚梁瀬ダム建設に伴い昭和38年、半世紀にわたる歴史を閉じた。